ねぷたの300年とこれから
弘前ねぷた300年祭 記念コラム
~中止になったからこそ分かった「ねぷた」の300年とこれから~
新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、2年連続で中止となった青森を代表する夏祭り「弘前ねぷたまつり」。合同運行は中止となったが、弘前市内では約50の団体がそれぞれの活動を行った。
「弘前ねぷた」が歴史に登場して来年で300年となる。
合同運行は中止となったが「弘前ねぷた」を改めて考え直すチャンスと捉え、そのあり方を問う2団体の代表に話を聞いてみた。
2年連続中止となった「弘前ねぷたまつり」
ねぷた集団「がほんず」代表 石川峰嗣さん 「がほんず」は今年で結成42年を迎えたねぷた団体です。
合同運行が中止となったことで、残念ながら「がほんず」も2年連続で活動をしていません。主要メンバーの中に家族が医療従事者で自粛している人がいたほか、ワクチンの接種がまだ終わらない状況では、感染予防の観点から諦めざるを得ませんでした。また、ねぷたは祭り当日だけでなく準備期間があり、不特定多数の人たちが集まるリスクがあったからです。
2年連続で中止となってしまったことで、若者のねぷた離れがあるのではと心配がありました。しかし、若いねぷた絵師らの中には私鉄の車内や商業施設などでねぷた絵の展示会を開いたり、SNSで発信を行ったりする人たちがいました。
私たちが「がほんず」を立ち上げた時は合同運行こそがねぷたでしたが、そんな時代とは異なり、今の時代にあった活動が生まれていると感じています。
個人的には、夏といえば毎年ねぷた小屋へ行き、準備に勤しむ毎日だったので、仕事から帰って何もない過ごし方に物足りなさを感じていました。
東京五輪の中継があったから何もしないということではなかったのですが、メンバー内でも何もない夏の過ごし方に喪失感を覚えていたようです。
弘前ねぷたと国外の違いについて
私は「弘前ねぷた卍會(かい)」の活動も兼任し、青森県外を中心に弘前ねぷた運行や津軽郷土の祭り囃子などの公演活動に参加していました。
過去には国内だけでなく国外にもねぷたを持って行ったこともあります。そこで気づいたことは、各地域にある祭りとは共通項が多く、祭りとして盛り上がったり楽しんだりする姿勢は特に違いがないということです。
海外でもフェスティバルとして楽しむ文化は同じで、囃子を演奏すれば、リズムに合わせて踊り始める人もいました。
ねぷたの由来には諸説ありますが、灯籠(とうろう)流しが始まりで、少しずつ手が込み始めて大掛かりになっていったのが今のねぷただと言われています。
灯籠を起源とする祭りは全国各地にあり、その祭りのほとんどが夏に開催。ねぷたまつりと重なるため、なかなか見る機会がありません。
私の場合、他の地域に参加できる経験があったから、ねぷたの起源や他の地域の祭りとの違いを知る機会が多かったことは幸いなことです。
祭りを楽しむことは大切ですが、ルーツや根っこにあるものを知る必要があると感じるようになりました。
ねぷたを改めて知る機会に
「弘前ねぷた」が記録として歴史に初めて登場したのは1722(享保7)年。弘前藩庁「御国日記」にその記述が登場し、5代藩主・津軽信寿(のぶひさ)が「ねぷた」(当時の呼び名は「祢むた流」)のいわゆる合同運行を見たことが記されています。
来年2022(令和4)年はまさに300年という記念の年とし、全国ニュースになるような話題を提供できる絶好の機会ととらえました。とはいえ、一回で終わるようなイベントではありません。再来年以降も受け継がれていくものが理想と考えています。
合同運行が現在の体制で始まったのは戦後。300年の歴史に比べれば70年ちょっとで長くはありません。それ以前はと言えば、町会単位の運行が主流でした。
私の住んでいた町会では、さまざまな町会活動の中の一つに「ねぷた」があり、「がほんず」を立ち上げたのは、そういった町会の活動に参加しなければいけない慣例や、毎年運行をしていなかったことに物足りなさを感じていたからです。
伝統や形は変わっていくものです。いつの時代も違った方法でねぷたを始める若者はいるもので、反対意見もありますが、私はそれも含めて文化の伝承ではないかと感じています。私自身がそうだったのですから。(笑)
ただし、根本にあるものは変えてはいけない、と感じています。これからの世代にも持ち続けてほしいです。言葉にすることは難しいですが、私たち津軽人に脈々と受け継がれていたものがあるのは確かにあります。
2年連続で合同運行は中止となりましたが、中止となったからこそ「弘前ねぷた」を改めて考え直す良い機会だったのではないでしょうか。
300年を迎えるにあたり、例えば全国各地にある夏祭りとねぷたを比較するような取り組みがあってもいいですね。そして、私たち一人一人が受け継いでいるものがあるならば、来年こそはみんなで楽しめる「弘前ねぷたまつり」ができるのではないかと信じてなりません。
町内運行を実施して初めて見えたこと
桔梗野ねぷた友の会 代表 松山憲一さん 桔梗野ねぷた友の会では今年、小学から中学までの子ども約40人を集め、町会内1?2キロほどを回るルートで運行を実施しました。
運行して気づいたことは、普段はねぷたが通ることない路地や団地の中などで、軒先まで見てくれる人や足を止めて声を掛けてくれる人が多かったことです。みな口をそろえて「ねぷたを久しぶりに見られてよかった」「運行してくれてありがとう」といった感謝の言葉を投げかけてくれました。
今まで合同運行でしかねぷたを披露していませんでしたので、新鮮な出来事でした。
ねぷたは本来、町会で行われる祭りだったことに改めて気づく機会にもなりました。ある意味では、合同運行が中止にならなければ分からなかったことでもあります。
市内では今年、感染症対策を行った上で町内会単位での活動が認められたこともあり、およそ50もの団体がそれぞれの形で運行やねぷたの展示などを行いました。おそらく私たちと同じような気づきがそれぞれにあったのではないかと感じています。
青森県にある「ねぷた・ねぶた」「弘前ねぷた」の違い
青森県内には「青森ねぶた」や「五所川原立佞武多」といったさまざまな「ねぷた・ねぶた」があります。
県外の人から見れば同じように感じるかもしれませんが、似て非なるものです。簡単にねぷたの形で違いを分ける場合もありますが、その違いについてはさまざまな見解があり、また地元の我々ですらわかっていないことも多いです。
私が考える違う点は、「弘前ねぷた」は子どもたちのためにやっていること。そして、観光ではなく、祭りという伝統行事という側面を色濃く残っていることです。
もちろん青森各地にある「ねぷた・ねぶた」の形を否定するわけではありません。弘前ねぷたにおいても観光コンテンツという側面もありますが、今回の中止によって原点に立ち返ったような気がしています。
合同運行が中止となっても各団体がそれぞれの手法で活動を行ったことが良い例ではないでしょうか。中には合同運行が中止になったからこそ、逆に町内運行を楽しもうという団体も現れていました。
主役は常に子どもたち
合同運行が中止になったことで経済的なダメージや街の活性といった面でのマイナスは否定できません。ですが、文化継承という意味において、私はポジティブに捉えています。「弘前ねぷたまつり=合同運行」ではないことが、合同運行が中止になったからこそ気付かされたのではないでしょうか。 祭りを行わない時に手持ちねぷたを飾り付けていた風習「城下の美風」や本来の目的である無病息災といった願いも改めて理解できる機会になりました。
城下の美風。市内各地に金魚ねぷたなどを飾った 運行の様子を沿道から見ていた赤子が、囃子の音に合わせるように足を動かしている様子を見かけたことがあります。
文化の伝承は必要ですが、津軽人には理屈ではないねぷたの何かを受け継いでいるのではないのかと感じました。
来年の300年祭に向けて何を取り組むべきなのか。私自身もまだ決めたことがあるわけではありません。しかし大切なことは、「弘前ねぷた」の主役はいつも子どもたちであるということ。
全国的に祭りという伝統は人手不足などが原因で存続の危機にあると聞きます。ねぷたも同じ。私たちの役割は次の世代へどう繋いでいくのか。
一人でも多くの人に考えてもらう機会になればとも思っています。